思考停止は、もうできない。
一応社会人へに切符を手に入れて、思考停止していた脳みそが余計なことを色々と考え出した。もう止まらないぜ。
最近の世間の先行き不安も相まって、将来に希望が持てないと感じるようになってしまった。
断っておくと、私はネガティブな人間ではない。
今まで、将来に希望が持てない、という気持ちが理解できなかったぐらいだ。
何故なら、小さな楽しみを見つけるのが得意な方だからだ、朝散歩をしているだけで、微かな幸せ気分を抽出して、無理やりハッピーになれるような奴だ。
自分を騙すのは群を抜いて上手い。つまり、現実逃避能力が高い。傍から見ればドMだともいえる。
仕事しだしたら、将来に夢も希望もない気がしている。
しかし今、就職活動が終わりかけている今、そんな私でも、現実を直視する必要が出てきた。入社を決断しなければならない。
正直言って、内定をいただいた会社は、ブラック企業ではないかと思っている。
ブラック企業とは何か。
仕事が大変なのは良い。仕事人間になるのも構わない。
私は仕事を通して、自分に出来ることを増やしていきたいと思っている。その分労働量は増えるだろうし、仕事中心の生活になるのも仕方ないだろう。
仕事人間なら良いが、会社人間にはなりたくない。
会社人間にはなりたくない。
私の想いは、これに尽きる。
独自理論ではあるが、会社人間を強要する企業は、ブラックだ。仕事人間になるのは自分の為だろう。お金が欲しい、成長したい、昇進したい...。
こうした欲求のために、人は仕事に打ち込む。もしも独り身で、必要最低限の生活をしたいだけならば、総合職を選ぶ必要はあるだろうか。
上に上がりたい、という向上心のために、仕事に打ち込むのは本人の自由であるし、そこに意志があるのならば、それはブラック企業ではないと思っている。
私の考えるブラック企業とは、会社の閉鎖的な独自ルールや風潮によって、個人の意志が尊重されなくなる状況を作り上げている企業、会社人間を作り上げて、社員の人生にとって足しにならない労働を強要する企業だ。
人間は群れると恐ろしい。
独自のルールや社風に、しっかりとした合理的な意味や、信念があるのであればよいが、殆どの場合、そうではない。用もないのに会社に残ること、飲み会の強要などはこれに当たる。個人の私生活や思考にまで会社が口を出す権利があるというのだろうか。
しかし、一日の殆どを職場で過ごす日本人にとって、会社のルールが自分の全てになってしまう。
これは学校のクラスなんかも同様だ。カーストやいじめなんかも、独特な閉鎖空間が引き起こす問題だ。
私は、優しくて、正しい人が生きやすい世の中になって欲しいし、なるべきだと思っている。世間知らずだと笑われるかもしれないが、この意見を一笑に付せるような、そんな世界に、果たして生きる希望はあるのだろうか。
成功している正しい人、人格者を見ると、とても幸せな気分になる。世の中捨てたもんじゃないな、と思う。
しかし、そんなのはごく一部だと人は言い、淡々と社会の、世間の、会社のルールに従って生きていく。それがその人の人生の全てだというのは、あまりにも悲しい。
人生の意味
壮大な話になるが、仕事を考えるには、人生の意味を考える必要がある。
就職活動をしていてよく分かった。人生について考えるのは恐ろしい。
人は、未知のモノを恐れる。その恐怖を打ち消す簡単な方法は、取り敢えず目の前の事柄に対処すること、先例に習うことだ。
生きていくために、セオリーは必須だ。この場合はどうすればいいのかググって、多くの場合、世の人々が、この事態にどう対処しているのかを調べる。そうして安心できるのだ。
想像の出来ない未知の領域について考えるのは恐ろしい。だから人は、思考停止をするのだろう。
私も例に漏れず、思考停止人間だ。就職活動の際には、セオリーを読みあさった。
因みに言っておくと、人生のプランを設計し、それに沿って仕事を考えるというのも、思考停止の一種だと思っている。
人生のプランを考える時に、人生の意味まで考える人は、少ないからだ。
何歳までに結婚して、何歳で家を建てて・・・。
こうした計画に、人生の意味は入っていないし、こんなことを書いている私にも、人生の意味など分からない。
なぜ人生の意味を考えるのは恐ろしいのか。
人生の意味は無数に存在し、果てがない。
果てがないということは、究極的に言うと、存在しないということだ。
人は、死を恐れる。死を思うことは、人生を想うことだからだ。
終わりが来てしまうのならば、何故、人は、生きるのか。
人生は一度きりで、自分という存在は、この世にたった一人だ。
どんなに周りに人がいても、世界は自分と、それ以外だ。一人で生まれ、一人で死んでいく。
考えるのを諦めないで
元々人生に意味などないのだから、考えても仕方がない。そう考えるのだろうか。
いや、違う。意味が存在しない。だからこそ、自分で作るのだ。意味など存在しないと気付いた時、虚無感に襲われるかもしれない。
しかし、考えるのを諦めないで欲しい。
存在しないからこそ、自ら探さなければならないのだ。これを放棄するのは、現実逃避に過ぎない。
自分の人生と、仕事について、考えるのを私は諦めたくないという青臭いボヤきを、長々と宇宙空間に放出しておく。
今日はこの辺で。さようなら。